外国語を学ぶ場合、母語の干渉を強く受けることがよく知られている。これは、学習者が自分の母語の音声構造を背景として発音を把握してしまうからだと考えられる。モンゴル人学習者が日本語を学ぶ場合にも、母語であるモンゴル語の音声の特徴が日本語の発音に現れてしまうことが多いようである。本文では、筆者が教育現場において見聞きしたケースを挙げつつ、モンゴル人日本語学習者の正しい発音を阻むいくつかの問題点を分析してみたい。
どの外国語を習おうと、まず発音からしっかり勉強しなければならない。正しい発音は外国語入門の第一歩であり、しかも大事な一歩でもある。特に「話す」「聞く」という応用能力を育てることを目標とした外国語教育の場合は、なおさら重要である。世界の数多くの言語の中で、日本語の音声構造は割合単純で、把握しやすいと言われている。確かに、日本語の音節は、ほとんど「子音+母音」というふうに、二つの音素からできる音節が圧倒的に多く、母音も少なくて、基本母音は五つしかない。また、「ん」の音が後続しない限り、全部開音節になる。それで、初歩の学習者は日本語の発音を「易しい」と考え、特に初歩のモンゴル人学習者は「日本語の母音は発音しやすい、‘え’を除けば、ほかの母音は全部モンゴル語にある」と甘く考えがちである。日本語の音声体系について、まったく無知である初歩の学習者たちのこのような考え方は一応やむをえないが、指導側の先生としては正しい発音指導を軽視してはならない。
モンゴル人日本語学習者に対して、日本語の正しい母音の発音指導を行うためには、まず正しい発音を阻むいくつかの母語による障害を知っておく必要があると筆者は思う。以下、このことをめぐって、発音指導上の注意点を述べてみることにする。
1、モンゴル語の母音調和律による障害
普通、モンゴル人学習者が日本語の母音を一つ一つ発音する場合、あまり問題が起こらないようであるが、それらを言葉の中で、つまり前後の音と結びつけて発音する際、しばしば口が滑って、本来の音が変形することがある。例えば、「買う」が「かお」になったり(ka・ω→ ka・o)、「丸い」が「まろい」になったり(ma・rω・i →ma・ro・i )、「送る」が「おこる」になったり(o・kω・rω→ o・ko・ro)する。なぜ、初歩のモンゴル人学習者にこういった発音上の癖が生じやすいかというと、これはモンゴル語の母音調和律に学習者が無意識的に影響されているからである。母音調和とは、アルタイ語系言語の音声上見られる一つの特色であり、つまりひとつの言葉の中で、最初の音節の母音によって後続の母音が制限されるということである。前記の「買う」が「かお」になってしまうようなことも、一種の母音調和現象と見て差し支えないであろう。というのはモンゴル語としては、一つの言葉の中で最初の音節に[a]という母音があると、その後ろのどの音節にも母音[ʉ](普通日本語を習うモンゴル人にしろ、或いはモンゴル語を習う日本人にしろ、モンゴル語のこの[ʉ]母音を日本語の母音[ω]と対応させて考えがちだが、厳密に言うと[ω]と[ʉ]はその調音点から言って微妙に違う音である)が入りにくいためである。まして、初歩の学習者たちが、日本語の「う」をモンゴル語の[ʉ]と全く同じ音だと誤解してしまうこともその問題のもう一つの原因になっている。(「う」の音については後で述べることにする)
要するに、現代日本語には母音調和がない。したがって「あ・い・う・え・お」五つの基本母音は言葉の中で音声的にほとんど何の制限も受けず、自由に組み合うことができる可能性がある。このため、現代日本語の音声にはモンゴル人にとって正しく発音しにくいくつかの音節の組み合わせができているのである。例えば、次の四種類の組み合わせのパターンの場合は特に気をつけなければならない。
1、「a+ω」のパターン
a+ω(会う)
ma rω i (丸い)
abωra (油)
tanωki (狸)
2、「o+ω」のパターン
o ω (追う)
ko iωbi (小指)
o kω san (奥さん)
to・bω・to・ki (飛ぶ時)
3、「ω+a」のパターン
kω wa e rω (加える)
nω ka sω (抜かす)
bω・ra・bω・ra (ぶらぶら)
4、「ω+o」のパターン
ωo (魚)
ω mo re rω (埋もれる)
nω no (布)
nω kω mo ri (温もり)
初歩のモンゴル人学習者が、ひょっとしたら例に挙げた言葉を次のように間違えて発音しやすい。
正しい発音: 間違った発音:
まるい → まろい
あぶら → あぼら
たぬき → たのき
こゆび → こよび
おくさん → おこさん
とぶとき → とぼとき
くわえる → こわえる
ぬかす → のかす
ぶらぶら → ぼらぼら
うもれる → おもれる/うむれる
ぬの → のの/ぬぬ
どうして以上のような問題が起こりやすいのであろうか。「う」と「お」の区別がモンゴル人にとってそんなに難しいのであろうか、実はそうでもない。モンゴル人は「う」と「お」を単独で発音するときは誰も確実に区別できる。ところが、「う」と「お」を一つの言葉の中で組み合わせる場合と、母音「あ」或いは母音「お」が入った音節と組み合わせる場合、以上のような問題が起こるのである。前記の例に挙げた言葉の音節構造を一つ一つ観察してみればすぐ分かるのであるが、それらの問題の共通点はつまり母音の同化である。例えば、「とぶとき(飛ぶ時)」が「とぼとき」になってしまうのは、第二番目の音節である「ぶ」の母音[ω] が第一番目の音節である「と」の母音[o]に無意識的に同化されて、「o+ω」がついに「o+o」に変形したわけである。これは音声学的にいうと、順行同化(Progressive Assmilation)現象が起こったのである。また「くわえる(加える)」が「こわえる」になってしまうのは、前の音節「く」の[ω]がその後ろの音節「わ」の[a]に同化されて「ω+a」が「o+a」になったわけである。これを音声学的には、逆行同化(Regressive Assmilation)という。初歩のモンゴル人日本語学習者たちの発音に見られるこのような順行同化と逆行同化現象は、モンゴル語の母音調和律による障害である。
指導方法:
①まず、学習初期の段階で、現代日本語の音節体系に母音調和がないことをはっきり提示しておくこと。つまり日本語としては、一つの単語を形成する幾つかの音節に入る母音が何の制限も受けないということである。
②モンゴル人にとって母音調和が生じやすい日本語の言葉を集め、練習のための標本リストを作り、学習者に繰り返し発音させ、間違ったところ及びその原因をその場その場ではっきり指摘してやること。
③学習者の既習した言葉を使って、わざわざ間違った発音をし、その正誤を判断させること。
④母音調和が生じやすい日本語の言葉を集め、ヒヤリングと書き取りの練習をさせること。ただし、書き取りは全部仮名で書いてもらう。
⑤教師としては、常に学生たちの発音に注意を払うと同時に、自分の発音にも気をつけ、母語の母音調和律に影響された曖昧な発音をできるだけ避けるようにすること。
2、母音無声化による障害
母音無声化現象は、現代モンゴル語口語の音声体系における一番大きな特徴である。現代モンゴル語では、一つの言葉の中で、最初の音節の母音だけがはっきり聞こえるように発音され、その後ろにくる音節の母音はほとんど抜けたといっていいくらい無声化するのである。モンゴル人学習者たちは日本語を習う最初の段階で、しばしば無意識的にこの無声化の影響を受けることがある。例えば、「求める」(mo+to+me+rω四音節)を(mot+me+rω三音節)と言ったり、「当たらない」(a+ta+ra+na+i五音節)を(at+ra+nai三音節)と言ったりする。要するに最初の音節だけははっきり聞こえるが、後の音節のどれかが曖昧になって、聞き手の耳に母音が抜けたような物足りない発音に聞こえる。特に、学習者が速く、流暢に読もう(或いは言おう)とする場合、よくこういう現象が起こる。これはあくまでもモンゴル語の母音無声化による発音障害である。
日本語には母音無声化現象はほとんどない。たとえあるにしても、丁寧の助動詞「です」、「ます」の「す」、または「美しく」の「く」ぐらいであろう。この程度のごく少ない無声化現象は、日本語の音声体系において主要な位置を占めるとは言えず、むしろ例外と言うべきものである。このように日本語は、モンゴル語と違って、無声化現象が普遍的でないので、いくら速く発音されても、それが正確な日本語である以上、言葉の中の音節が一つ一つ歯切れよく発音され、しかも聞いて何音節かすぐ分かるのである。つまり音節ごとの母音が比較的はっきりしているのである。
指導方法:
①母音無声化現象は、現代日本語において普遍的でないことを指摘し、逆にそれが現代モンゴル語の普遍的な現象であることを強調する。母音の無声化と非無声化については、モンゴル語の書き言葉(文字言葉)の発音と話し言葉の発音を対比して説明すればさらに理解を助けることになろう。
②発音指導の段階で、音節をつづって単語を読ませる練習をする場合、速く読むように要求しないほうがいい。日本語の音声構造にまだ充分なれていない初歩の学習者たちが、もし音節をあわてて早口に綴ると、母音脱落或いは母音無声化が起こりかねない。だから、やはり学習初期の段階では、言葉の音節ごとをはっきり、ゆっくり読ませる(或いは言わせる)ようにする。特に単音節でできた助詞(は、を、へ…など)を前の言葉と結び付けて読む場合、助詞の一拍子を必ずはっきり言うように指導する必要がある。そうでなければ、「学校へ」が「がっこへ」になったり「わたしを」が「わたしょ」になったりする。
③教師は新出語句を教える場合、或いは応用会話などを指導する場合、自分の発音をゆっくり、しかもはっきりすること。普通のスピードより、もっとゆっくり発音するほうが望ましい。これが、一つの言葉の音の構造を、正確に理解させ、その正しいアクセントとイントネーションを意識させることにも役に立つのであろう。
3、「う[ω]」と[ʉ]について
初歩のモンゴル人日本語学習者は日本語の「う」をモンゴル語の[ʉ]に当てはめて発音するのが普通である。つまり日本語の「う」はモンゴル語の[ʉ]と全く同じ音であると勘違いしてしまうのである。しかし、厳密に言うとこの二つの音は違うのである。その主な違いは、日本語の「う[ω]」が非元唇奥舌高母音であるのに対して、モンゴル語の[ʉ]は元唇中舌高母音である。しかし、このような音声学的な指摘は、いうまでもなく初歩の学習者にとって、あまりにも抽象的で分かりにくいかもしれない。そこで、もっと分かりやすく説明すると次のようになる。日本語の[ω]を発音する場合は、唇の丸めが伴わないし、舌も緊張しない。しかし、モンゴル語の[ʉ]を発音する場合は、唇の丸めが伴って、舌が緊張するのである。
指導方法
①日本語の「う」はモンゴル語の[ʉ]と違うということを明確に指摘しておく。そして「う」と[ʉ]を言葉の中で対比しながら聞かせる。ただし、「う」の音が入った日本語の単語と[ʉ]の音が入ったモンゴル語の単語を対比するのでは、その区別を聞き分けることが難しい。そこでモンゴル語の[ʉ]の母音を子音と結びつけて、わざわざ日本語の「う」で発音して聞かせる。つまり日本語なまりのモンゴル語を聞かせてみるわけである。例えば、[ʉʉl]、[nʉʉr]、[ʉʤʉʉl]といったモンゴル語の単語を、日本語の発音で「ウール[ωωl]」、「ヌール[nωωr]」、「ウジュール[ωʤωωl]」というふうに発音してみせる。すると、これらの発音がモンゴル語としてはなんとなく不自然になったことに学習者が気付き、「あれ?」と思うことになる。その場合、今の変に聞こえている母音こそ、日本語の「う」の音であると指摘すると、学習者は始めて日本語の「う」はモンゴル語の[ʉ]といったいどう違うかと言うことを直感的に意識し、納得できることになる。
②「う」段の仮名が入った言葉を、幾つか集めて練習させながら、学習者たちの口の動き方にも注意を払っていく。唇が緊張しすぎてあまり尖っていると、その「う」が本格的な「う」にならないはずである。
以上、初歩のモンゴル人日本語学習者の発音段階において、日本語の正しい母音の発音を阻む主な障害を指摘し、その障害の形成原因を不十分ながら一応述べた。発音指導の立場から見れば、母音だけでなく、いかなる音にしろ、それらを学習者たちに習得させようとする場合、音声構造の中で繰り返し練習させることが大切であると思う。五十音図をはじめ、そのほかの濁音、拗音、促音などを、教科書の並べどうり全部その順序で流暢に発音することができたからといって、発音指導の目標を達成したとはいえない。留意しなければならないのは、それらの音が日本語の音声構造の法則に従って、どの言葉の中でも正しく発音できるかどうかということである。
独立的に仮名を一つ一つ発音する場合は、あまり問題なく発音するが、組み合わせて発音すると、調子が外れると言うのは、母語の音声構造に左右されるための障害にほかならない。その対策としては、発音指導の段階において、テープなどを聞かせて、機械的にまねさせることも無論大切であるが、同時に、日本語の音と母語の音との違いや類似点をはっきり見分けさせ、いかにして母語の障害を乗り越えるかという積極的な工夫も必要であろう。